脳はみんな病んでいる(新潮社、著:池谷裕二、中村うさぎ)より抜粋


(自閉スペクトラム症などの)発達障害は病気ではない。手足が不自由な身体障害も病気ではない。「治らない」という共通点がある。でも、本人の努力や工夫、そして、受け入れる社会側の寛容な理解と適切な支援システムによって、生活上は差し支えない程度にまで適応できます。

車椅子の身体障害者車についてはエレベーターやスロープや特別駐車場などのように、社会がずいぶんと整備してくれて、幅広い支援が得られています。一方、発達障害についてはまだまだ。

片目の不自由な方をイメージしてもらえばよくわかると思います。片目が見えなくても、もう一方の目がきちんと見えていれば、多少の苦労はありますが、普段の生活に絶望的なほどの不自由はありません。自閉スペクトラム症もそれです。別に生死にかかわるような重篤な障害ではないのです。でも、対人関係で特殊な場面に至ると、意外なほど困難を伴います。世間の人は「針に糸を通す」ことくらい難なくできますから、その能力を「当然のこと」として他人にも要求してくるでしょう。でも、相手が目の不自由な方だと知れば、「気の毒に」と助けてくれるはずです。障害者ご自身も、一人で糸を通すことができるように練習したり、なんとか工夫したりして、糸通しが上手になるかもしれません。片目が見えないという事実そのものが解消されるわけではありませんが、周囲のヘルプや自身のトレーニング、あるいは適切な支援ツールやアプリが開発されれば、不自由さはずいぶんと改善されます。作業的な適応です。

こうした適応は、世間の理解や支援があればこそです。自閉スペクトラム症も当事者が自身の症状にきちんと気づき、そして、周囲の人々にも正しい知識があれば、適切な方向に学習が進み、「生きにくさ」はほぼ消えるはずです。

疾患や障害の判断基準は「日常生活に不都合があるか」が、ひとつの焦点となりますので、社会の要請や認知度、あるいは社会の成熟度や科学・技術の進歩によって、疾患や障害の定義が変わるのは、ある程度は仕方がないことです。あえて強い表現を使えば、「障害者は社会が作るもの」という言い方もできなくはないのです。自閉スペクトラム症だって、人類が狩猟採集を行っていた旧石器時代には、個性の一形態にすぎず、それほど大きな問題ではなかったと思うのです。その意味で、自閉スペクトラム症は、現代特有の「非定形」というラベルです。